「勉強しなさい」と言われて育った方は多いと思います。
私も、我が子には口うるさく「宿題しろ!」「予習しろ!」と言い続けてきました。
我が子も虫の居所が悪いと、「なんで勉強しなくちゃなんないの?」と口をとんがらせていました。
なんで?
そういえば、勉強する理由を考えると、月並みな回答しか浮かびません。
「立派な大人になるため」「いい大学に行くため」。
いつも面白いことを考えている私としては、まったくもってつまらない回答です。
そこで過去に立ち戻ってみました。
私は小学校時代、成績が良かったので、親から「勉強しなさい」と言われたことは一度もありませんでした。
私はなんの疑問も抱かず、勉強も掃除もお手伝いもしていたのです。
哲学的思考の子どもなら、「なぜ、我々は勉学に励まねばならぬのか」「なぜ、我々は親の言うことを聞かねばならぬのか」と頭をひねったかもしれません。
要するに私は、行動に移す意義を深刻に考える性格ではなかったようです。
それが今となっては良かったと思っています。
こむずかしい理由をいちいち考えていたら、人生のスピードは鈍るし、ほかの楽しいことをする時間が減ってしまいます。
勉強やお手伝いをさっさと済ませてしまえば、あとは死ぬほどテレビを見てもいいし、コミックに囲まれてお菓子をバリバリほおばっても罪悪感がまったくない。
つまらないことをやったあとには至福の時間がおとずれるということを、幼心に理解していたのだと思います。
大学受験もそうでした。
「国立大学しか行ってはいけない」とこわーい担任に言われれば、「なんで?」とは考えずに、「はい、了解!」と猛烈に受験勉強を開始しました。
脇目もふらず英単語や古文の活用を暗記。
お手製の年表と歴史カルタをつくり、ご飯を食べながら、「墾田永年私財法=公地制度はもうなしさ(743)。
建武の新政=いざ斬新(1334)な建武の新政」と、年号をブツブツ唱える。
「なんで年号を覚えなくちゃなんないの? 社会に出て使うことあるの?」とは1ミリも考えたことはなく、これさえ覚えれば将来遊び暮らせるという思いしかありませんでした。
この「地獄を乗り越えると天国が待っている」という考えは結果、大正解でした。
志望校を合格した瞬間に味わった苦しみからの解放感は、何にもたとえることができません(まあ結局、その解放感から、大学時代はゴーコンに明け暮れることになるのですが……)。
理由をいちいち考えていては、何か行動する際のハードルは一気に高くなり、人生の幅は圧倒的に狭くなってしまいます。
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