AV業界の第一線で活躍し続け、多数の著書もある男優・森林原人さん。連載ではセックスにまつわる様々なテーマを多角的な視点で語っていただきます。第一回は「アダルトビデオとはいったい何なのか?」についてです。
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AVの定義とは
AVが誕生して20年と経たない20世紀終わりのこと。某フェミニストが「AVなんてくだらないものがあるから、日本のセックスがダメになったんだ」と言ったという。それを受けて某AV監督が「だったらあんたが良いって思うセックスを教えてくれよ」と返すと、「そんなの知るか 」と声を震わせながら泣いてしまったという。
別の話で、AVがあるおかげで性犯罪が抑止されているという説を唱える人がいて、痴漢犯罪者のほとんどは、痴漢ものAVを見ているというデータもある。
何が正しくて何が間違っているか、正しさの追求は置いといて、AVことアダルトビデオが誕生して40年以上経った今、日本人の性価値観、性生活、性行動に多くの影響を与えていることは間違いないだろう。
エロい動画のことだとざっくりと捉えている人がほとんどだろうが、エロと感じるものは人によって違う。AVの定義は法律でされていない。なぜなら、猥褻の基準が法律で明確にされてないのだから、エロも曖昧なままだ。
なので、ここでは、僕個人が考えるAVの定義を提示しておく。
AVとは、性器の露出がある性行為が描かれていて、日本では性器にモザイク処理された映像で、視聴者に性的興奮を促すことを目的としたものである。リアリティーや出演者の反応が誇張されており、多くの場合、性器の露出と結合、出演者のオーガズムの瞬間が最大の見せ場となっている。
海外ではポルノと言い、出演者の衣装や設定、プレイ内容にかかる制限は各国によってバラバラである。性器にモザイクをかける国は、日本と韓国である。
この定義を前提として、AVとは何なのかを掘り下げていく。
男性器にコントロールされる“モノ”として扱われる女性器
AVではセックスのことを絡みと呼び、性器の結合を意味し、男性の射精で完了することが通例。行為における主導権は男性側にあることがほとんどで、男性器の3変化(勃起/興奮、挿入/快感、射精/絶頂)を軸に展開される。視聴するきっかけとなるのは女性(女優)で、文字通り主役だが、絡みの核心にあるのは女性器ではなく、男性器である。女性器はあくまでも男性器のために存在するものであり、男性器によってコントロールされる“モノ”として扱われる。
AVを考えていく上で、ポイントとなるのは2点で、男性器の快感、都合が最優先される男根主義の世界である点と、女性器だけではなく女性そのものが“モノ”になっている点である。
女性の価値は、“モノ”としての評価であり、年齢、スタイル、顔の良し悪し、肩書き、男を喜ばせる性機能や技術でランク付けされていく。“モノ”なので、使えるか使えないかという機能性の有無で評価され、『オカズにする』という言い方をする。オカズに対して何が主食となっているかと言えば、男根である。白米を食べるためにおかずがあるように、男性器が快楽を得るために“オカズ”となる女性が存在する。
女性の価値を男性器で判別しAVセックスをする男たち
AVは映像で、二次元情報として視覚に訴えかけるものである。映像のテクノロジーの進歩により、よりリアルに、没入感を高めるコンテンツが作られるようになっているが、男性器を中心に作られている世界観は変わっていない。
この男根主義の世界線と、現実世界の区別がつくかどうかが、AVの影響をどれほど受けるかに影響する。具体的に言えば、現実世界において、女性を視覚情報重視で捉えて性的興奮をうながすモノとしてしまう傾向が強くなればなるほど、AVのようなセックスをしてしまう。相手の内面を見ようとしたり感じるのではなく、価値を男性器で判別するのである。3変化の第一形態(勃起/興奮)をうながす女性をイイ女と呼ぶ。
イイ女は、男性器のためにこの世に存在しており、快楽(挿入を始めとする快感を生み出す性的刺激)を予感、イメージさせるモノである。
AVは抜けなければ価値がない
AVでは、女性の絶頂が見せ場だが、これは男性が女性を喜ばせているようで、その実は違う。最高の絶頂は中イキ(男性器を女性器に挿入した状態)であり、女性が男性に完全に支配された瞬間を意味する。女性のイクは女性自身の喜びのために求められるのではなく、男性のためにイクことを義務付けられている。
これらがAVの本質であり、設定や表現方法、見せ方、出演者、プレイ内容にいろいろなものがあるだけである。
ここで1つだけ断りを入れておくと、男根主義じゃないAVを追い求める者もいるが、マーケティング的に成功し続けている例は無い。男根主義じゃない性行為の映像は、娯楽として消費するものではなく、性愛を深く知るために学ぶ手引きとなっている。男性に都合の良い映像でないと、多くの男性にとっての価値は無い。だから、AVは抜けなければならないとされている。
本当に感じることを知った人は、AVを利用し続けることはできない
本筋に戻ると、男根主義の女性モノ化世界の映像を見続けることは、日本古来の目と目を見て一体化する交わりの目合い(まぐわい)から離れていくのは必然である。
でも、これが悪いことだと一概に言えないと僕は感じている。なぜなら、AVに出演する女性の多くが、オカズになることで、抜ける商品に“なれる”ことで、自分の存在価値を感じている現実があるから。人であることを感じるためには愛されるのが1番だがそれは難しい。だが、モノであることを感じるために利用、消費、評価されるのは比較的たやすい。多くの人が隠している場所を露出するだけで、喜ぶ人を見つけることができるのだから。その承認は一過性のものだが、無いよりはマシなのだ。
最後に、人とモノの違いを説明すると、人は唯一無二の存在で代わりがきかないが、モノは他と違っていても代替品が見つかる。人を人たらしめているのは、その人の心であり、感情である。男性器を中心とする世界線では、相手の心を本当に感じることはできない。逆を言えば、本当に感じることを知った人は、AVを利用し続けることはできない。